本家力軒の歴史

当家が販売する三井寺辨慶力餅の由来は当長等山園城寺(三井寺)の一基の霊鐘にあり、世の伝説では辨慶の引き摺り鐘と言われております。

伝え聞くところはるか昔、比叡山延暦寺の西塔谷に武蔵坊辨慶という者がおり、腕っぷしはとことん強く、常に衆僧たちの畏敬を集める存在でした。
この時代、天台宗密教において延暦寺の山門と三井寺の寺門両勢力がどちらが最高位の僧を継ぐべき宗派であるかを争っておりました。
抗争が止む時はなく、遂に山門の僧兵が園城寺を攻め、数多の堂塔伽藍を焼き打ちしました。
当該の霊鐘もまた戦利品となり、辨慶引き摺り鐘の伝説がここに生まれたのでした。

時が経ち、正保・慶安(一六四五ー五二)の頃、この霊鐘にちなんだ名の餅を、三井寺境内で販売する者がおりました。実にこれが、三井寺辨慶力餅の発祥であります。
徐々に世に知れ渡ってきたところで、元禄年間(一六八八ー一七〇四)三井寺観音堂の火災の際に類焼し、しばらく販売は途絶えたのち、文化年間(一八〇四ー一八)、当家の祖である礒兵衛が名物の廃絶を嘆き、その事業を再興し、以降、現在に至ることおよそ二百有余年をもって、名物三井寺辨慶力餅の名で再び世間に喧伝するに至っております。

「三井寺辯慶力餅」縁由

「弁慶の引き摺り鐘」

むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。

※「三井寺」ホームページより引用